キッド設立(1968)〜「ザ・シティ」公演(1974)

 

  1968年「東京キッドブラザース」(当初「東京キッド兄弟商会」)は、その年「天井桟敷」を

  脱退した東 由多加が、メンバーに、下田逸郎[作曲]、佐藤憲吉(ペーター佐藤)[舞台美

  術/俳優]、峯のぼる[照明]、梶容子[制作]、深作龍作、小林由紀子、高橋章夫<敬称略>

  の7名を集めて創設。

  69年、小劇場「HAIR」をオープンし、大野真澄[ボーカル]、田山雅充[ドラム]<敬称略>を

  加え「東京キッド」などの作品を上演。

 

  「東京キッド」を上演中、その頃来日中のアメリカのラブ&ロックミュージカル『ヘアー』へ

  キッドブラザース全員出演依頼があった。結局、大野真澄、深作龍作の両氏だけがそこに

  参加することになり、残りのメンバーで次回作「黄金バット」を公演する。しかし、3日で打ち

  切りになる。

 

  再度、スタッフを役者に仕立てたスタッフ版「黄金バット」が完成し、成功を収める。それを

  機に『ヘアー』のプロデューサーからニューヨーク上演の話しが持ち上がる。結局、その後

  問題が起きて自主公演としての興行となったニューヨークでの公演は、大成功を収める。

 

当時のメンバー

斎藤正一・佐藤憲吉・永倉萬治・長井礼子(八美)・ 峯のぼる

小林由紀子 ・加藤栄・中川節子・深水三章 ・荒川純・斎藤泰徳
<敬称略>

 70年の終わりに一行は帰国。その後71年「八犬伝」、72年「西遊記」と立て続けに

 海外ツアーを行っている。

 

 海外での公演を終えた東氏は、劇団の人間関係がうまくいかず、厭世(※えんせい)的

 な気分にとらわれ、毎日は憂鬱だったという。 その反動により、“コミューン”(=共同体)

 への憧れを抱き、1972年「さくらんぼユートピア」計画を実施するも、地元住民の反対

 にあい失敗に終わる。 ※『世の中をはかなく思うこと』

 

 この時の体験を芝居にした「黄色いリボン」はスマッシュヒットとなり、73年「海賊キッド」

 のグアム公演を終えると、立木(秋川)リサ主演、山口小夜子・内田裕也・大口ひろし<敬

 称略>ゲストという豪華メンバーで「猿のカーニバル」を上演。
 

 

    74年、ニューヨーク・ロンドンにて、「ザ・シティ」を公演。この作品は、それまでの海外公演用

    に作 られたオリエンタルなムードから一新、現代の日本の“モーターサイクル族”を題材にした、

   全編英語の現代劇であった。その為に批判にさらされ、公演は失敗に終わる。

   日本に戻った時は、お金もなく、劇団員も辞めていき、残ったのは5名であった。  

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